「蝸牛角上の争い」小さなことで争わないこと
『荘子』にはまたこんな話がのっている。
魏 の 恵 王 が隣国の 斉 を攻めようとしたときのこと、賢者の 戴 晋 人 という者が、こういって魏王を 諫 めた。
以下二人の会話。
「王は、かたつむりをご存知 でしょうか」
「知っておる」
「そのかたつむりの左の角には 触 氏という者の国があり、右の角には 蛮氏という者の国があって、絶えず領土争いを繰り返しておりました。あるときなどは、激戦十五日にわたり、双方の死者数万を出すに及んで、ようやく兵を引いたほどだと申します」
「冗談もほどほどにせい」
「けっして冗談ではございませぬ。その証拠には、これから申しあげることをとくとお聞きください。王は、この宇宙の上下四方に、 窮まりがあるとお考えでしょうか」
「窮まりはなかろうな」
「では、心をその無窮の世界に遊ばす者からこの地上の国々を見れば、ほとんどあるかなきかの存在に等しいとはいえませぬか」
「なるほど、そうもいえるであろう」
「その国々のなかに魏があり、魏のなかに都の 梁 があり、梁のなかに王が住まっておられます。 してみますれば、王と蛮氏と、どれほどのひらきがありましょう」
「ううむ、ひらきはないというわけか」
魏王はしばし 呆然 自失のていであったという。
これが有名な、「 蝸牛角上 の争い()」の話である。
たしかに、大きい立場に立って長い時の流れのなかでみるとき、現実の利害にとらわれてあくせく動き回っている人間の営為は、いじましくも小さいといわなければならない。
一人ではない。先祖が見守ってくれている。
コロンビア大学のルー・リトルは、アメリカン・フットボールの偉大な監督のひとりだった。終戦後にコロンビア大学の学長となったアイゼンハワーも、彼を偉大なリーダーのひとりとして認めている。
コロンビアにくるまえ、リトルはジョージタウンで監督をしていた。1928年、そのチームにはデニス・フラハーティという補欠選手がいて、毎日午後になると年配の男性と練習をしていた。
最大のライバルチーム、ホリー・クロスとの試合当日、フラハーティはこう尋ねた。
「監督、きょうのゲームでは先発メンバーに入れますか?」
リトルは答えた。「きもは身体が小さすぎるんだ。きみが一生懸命に練習していることは知っている。だから、重要じゃない試合のときに終盤で使っているんだ」
「監督、お願いです。やるべきことがきちんとできなかったら、最初の5分で代えてもらってかまいませんから」
結局、リトル監督は彼を先発で使い、最後まで交代させなかった。フラハーティはキックを防ぎ、クォーターバックに2度タックルし、パスを奪い、タッチダウンまでしました。試合後、リトルは言った。「フラハーティ、なぜ自分がここまでできるとわかったんだ?」
「リトル監督、毎日一緒に練習していたのは父なのです」
「そうだろうと思っていたよ」
「父は目が見えませんでした」。フラハーティは説明した。
「そして昨夜、心臓発作で亡くなりました。だから、父はきょう初めて、ぼくがプレーするのを見たと思うのです」
リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21参照
私たちの先祖も私たちを見守っています。
「見えること、五感があることの幸せ」 ヘレン・ケラー
ある日、森の中を長い間歩いてきたという友人に、ヘレンさんは聞きました。
「森の中にはどんなものがあった?」
すると、友人は「別に何も」と答えます。
そのときにヘレンさんが感じたことというのが、以下の文です。
「1時間も森の中を散歩して、『別に何も』ないなんてことがどうしたら言えるのだろうと思いました。
目の見えない私にもたくさんのものを見つけることができます。
左右対称の繊細な葉、白樺のなめらかな木肌、荒々しくゴツゴツとした松の木の樹皮・・・。
目の見えない私から、目の見える皆さんにお願いがあります。
明日、突然目が見えなくなってしまうかのように思って、
すべてのものを見てください。
そして、
明日、耳が聞こえなくなってしまうかのように思って、
人々の歌声を、小鳥の声を、オーケストラの力強い響きを聞いてください。
明日、触覚がなくなってしまうかのように思って、あらゆるものに触ってみてください。
明日、嗅覚と味覚を失うかのように思って、
花の香りを嗅ぎ、食べ物を一口ずつ味わってください。
五感を最大限に使ってください。
世界があなたに見せてくれているすべてのもの、喜び、美しさを讃えましょう」
ヘレン・ケラーは、もし自分に三日間だけ「見る」ことが許されたら、
何を見たいのか書いている。
それによると、まず初日には、アン・サリバン先生を見る。
それはただサリバン先生の顔や姿を見るのではなく、先生の思いやり、やさしさ、忍耐強さといったものを読み取るために「じっと見る」のだという。
また、赤ん坊、親しい人々を見て、さらに森を散歩して、沈む夕日を見て、祈るという。
二日目の早朝は、雄大な日の出を見て、
さらに美術館で人間の歴史を眺めてみたいという。美術作品を通して、人間の魂を探りたいのだ。
そして夜には、すでに認識の上では「見た」ことのある映画や芝居を、本当に見てみたいという。
三日目は、再び雄大な日の出を心ゆくまで見る。そして、ニューヨークという活気ある街とそこで働く人々に目を向ける。
さらに、橋・ボート・高層ビルを見て、ウインドウ・ショッピングを楽しむ。最後に、夜には、再び劇場で人生ドラマを楽しみたいという。
差別は重罪 「同事」差別されて落ち込む必要はない
仏教では差別は重罪です。
もし、差別的なことをされたり、言われたりしたら、ニコッと笑い返せばいいのです。
たとえ石を投げつけられても、はらわたが煮えくり返るような暴言を吐かれても、決して怒ってはいけません。
逆に、自分を卑下して、落ち込む必要もありません。
人の役に立つ生き方をあらわした仏教の「四摂事(ししょうじ)」のひとつ、「同事(どうじ)」では、「一切の生命は平等で、決して差別してはいけない」としています。
少しでも相手を差別したら、それだけで重罪です。 差別する人なんて、放っておけばいいのです。一切、無視するのです。
宗教の立場で言えば、キリスト教やイスラム教では、「同性愛は悪なので、地獄に落ちる」と脅しています。
仏教では、まったく気にしていません。 「罪が悪い」と仏教は言います。
「罪」というのは、殺生すること、盗むこと、嘘をつくこと、怒り、嫉妬、憎しみなどの暗い思考を持つことです。
昔からある売春行為は、世間ではすごく悪いことだと思っているでしょう。
仏教から見れば、あまり厳しいことは言っていません。
それは、売春行為は、目的がはっきりしているからです。
いくらかの収入を得るために、仕事としてやっている。それで契約は終わり。
ですから、「責任」の問題が出てこない。女性が「売春行為をするのは、いいかどうか」というのは、また別の問題です。
仏教では、そういう仕事をした女性たちが、結構有名な、すごく立場のある仏教徒になっていて、経典に記録されています。まったく「差別の目」で見ていません。
「三輪空」 見返りを求めなければ苦しくない
仏教の教えに三輪空(さんりんくう)というものがあります。
「私が」「誰々に」「何々を」という3つの執着を空ずる(忘れる)ようにしなさいという意味です。
三輪空ができないと
「せっかくやってやったのに」「お礼がない」「お返ししてくれない」「感謝してくれない」と、余計に心が苦しくなったりすることもあります。
ですので与えるのであれば、私が、誰々に、何々をしてあげたという気持ちを、思い切って手放しましょう。
三輪空ができないことで、惑業苦(わくごうく)の歯車が回ります。
「惑」とは、煩悩です。
感謝してほしい。
これらが、業(思考・行為)を起こします。
なぜ感謝してくれないのか?お返ししてくれないのか?嫌な気持ちになる。怒る、悲しむ。
苦(自分と他人に)を生じる。
また惑に戻る。
従って、煩悩を捨てることが苦の解決になる。
お釈迦さまは「曽無一善(ぞうむいちぜん)」(これまで一つの善もしたことがない)とおっしゃっているのです。
「 これまで一つの善もしたことがない」とお釈迦さまは断言されているのですが
「曽無一善」のお言葉を正しく理解するには、仏様から見られて善といえるものはどんなものなのかを知らねばなりません。
お釈迦さまをはじめとする仏様から見られた善とは「真実の善」のことです。
真実の善とは、身体の行為だけではなく、心も清らかな状態でする善をいわれます。
清らかでない心とは、どういう心のことでしょうか?
それは「見返りを求める心」「恩着せ心」をいわれます。
人間には「自分はこんなにやっている」という“見返りを求める心”があり、お礼を言わなれないと、その心が満たされないからですね。満たされないと礼の催促をしたり、怒りの感情が出てきたりしています。
親切をするのは本来、相手の幸せを思ってのことです。相手が幸せになってもらえればそれでいい、とだけさえ思えればいいのですが、どうしても自分の利益も考えてしまう…。
一生懸命親切をやっている善人ほど、腹を立ててしまうというのは悲しい人間の性です。
仏教では、人間のする善(善いこと、親切)はすべて「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」と言われています。
雑毒とは、毒が雑じっている、ということです。毒とは、見返りを求める心のことです。私達の人間のする善には例外なく、見返りを求める心がともなっている。それを毒が雑じった善と教えられているのですね。
親切をしたときに期待通りの見返りが得られないと、「こんなにやってあげているのにどうして!」と見返りを求める心が怒りへと変わります。その怒りによって自分自身が苦しむことになるから毒にたとえられているのです。
仏様からご覧になれば、人間のする善には例外なく毒が雑じっている雑毒の善です。だから「これまで見返りを求めない清らかな心でやった善(真実の善)は一つもない」と断言されているのです。
見返りを求めない完璧な三輪空ができないとしても「私が」「誰々に」「何々を」という3つの毒をできるだけ空ずるようにして自分自身の苦しみを減らしましょう。
「武田信玄と鳩」運は自分でつかむもの
戦国の名将・武田信玄は、甲斐を本拠とし、信濃制圧を目指していた。
全軍が、まさに出陣しようとしていた時である。一羽の鳩が飛来し、庭の大樹にとまった。それを見た兵士たちは、皆、
「わぁー」
と歓声をあげて喜んだ。
不審に思った信玄は、老臣に尋ねた。
「なぜ、兵士たちが、あんなに喜んでいるのか」
「出陣する際に、この木の上に鳩が来たならば、大勝利間違いなしと、昔から伝えられております。大変、縁起のいいことです。兵も必勝を確信し、沸き立っているのでございます」
老臣もうれしそうだ。
しかし、信玄は表情を変えない。黙って鉄砲を手に取り、たちまち鳩を撃ち落としてしまったのである。
「殿、何をなされますか。吉兆が凶兆に変わってしまうではありませんか」
老臣は驚いて詰め寄った。
「かりに、鳩に吉兆があるとしよう。では、次の合戦の時に、もし、鳩が飛んでこなかったら、おまえたちは、どんな心境になるのだ」
「……」
老臣は答えられない。
信玄は、出陣する兵士に諭した。
「鳩が来たら縁起がいいと喜ぶ者は、鳩が来なかったら、今度の戦いは危ういのでは、と不安を抱くに違いない。
そうすれば全軍の士気が下がる。戦わずして、負けたも同然ではないか。
ささいなことを信ずる惑いを解いてやったのだ。
むしろ、普段から戦いに備えて自己を錬磨し、必勝の信念を持つべきである」
(『こころの道』より)
迷信を嫌った武田信玄は、
「縁起をかつぐ心は、戦う前から負けている」
とまで言っています。
ブッダも占いなどを信じないように言っています。
前世、因縁、呪縛、家相や墓相、吉凶、 種々の占い……それらはみな、人を縛る知見であり、 迷信であり、苦しみの種となるものである。
今の苦しみから脱するためにと思いながらも、 かえって苦しみの種を抱える人の なんと多いことか。