マウンティングするのはみっともないこと

感情はすべての生命に共通しています。

だから、「一部の生命だけが感情に汚染されていて、一部の生命は生まれつき清らかな心を持っている」などと思ってはいけません。

 

時々、「私はあなた方より優れているのだ」と誇示する人びともいますね。もし本当に修行して心清らかになっている人なら、そのような自己主張はしないはずです。

 

誇示することは

認められたいという承認欲が強く、心の汚さを自分から見せるみっともない行為です。

言葉の偉大なる力 幸せになる言葉の使い方とは? アルボムッレ・スマナサーラ長老 参照

「小さな花」許すことで相手は改心する。

 ある寒い日、震えている老人がパンを1斤盗んだ罪で告白され、ラ・ガーディア判事のめに連れてこられた。

 

家族がひもじい思いをしているのだと老人は弁明したが、ラ・ガーティアは「わたしはあなたを罰しなければならない」と言った。「法律に例外はない。10ドルの罰金を言い渡すしかないのだ」

 

 しかし、小さな花というあだ名でしたれているラ・ガーディアは、ポケットに手を入れてこう付け加えた。

「ここに10ドルあるから罰金を払いなさい。これでよしとしよう」。

そして、その10ドル札を自分の有名なソンブレロ帽に放った。

「それから、市民が食べていくためにパンを盗まなければならないような町の住民であるという理由で、この法廷にいる者全員に50セントの罰金を申しつける。廷吏、罰金を集めて、被告人に渡しなさい!」

 

 帽子が法廷でまわされた。老人は、とても信じられないという顔をしていたが、やがて目に幸せそうな光を浮かべると、47ドル50セントを胸に法廷を出ていった。

リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21参照

リンカーンの大いなる失敗 「あなたが転んだことには関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ」

 ある一人の青年がイリノイ州議会の議員に立候補しれ惨敗を喫した。そこで実業界に入ったが、また失敗をして、一文無しになぅた共同経営者の負債を背負い込んで、十七年間もかかってそう借金を返済した。

 

 この男は、一人の美しい婦人と恋に陥って、婚約まで結んだが、まもなくその婚約者は死んでしまった。

 

 そして再び政界に舞い戻って国会議員に立候補したが、これまた一敗地にまみれた。そこで、合衆国地域管理事務所に任官するために奔走したが、これも失敗に終わった。それからまた上院議員選挙に立候補したが、またまた落選の憂目を見た。二年後には、ダグラスと戦って選挙に敗れた。

 

 失敗に次ぐ大失敗を重ねたが、しかもなおこのようなあらゆる失敗にも屈することなく、営々として努力をつづけていって、ついに彼は歴史上最大の人物になった。おそらくあなたはこの人物については十分に承知しているはずだ。

 彼の名前こそ、人も知るエイブラハム・リンカーンである。

 

あなたが転んだことには関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ

エイブラハム・リンカーン

 

人生において、どんな優秀な人でも必ず失敗します。

一方で、成功する人、そうでない人がいますが、成功するかどうかの違いは、失敗したとしても再びチャレンジをするかどうかで決まるのだと思います。

慧可断臂(えかだんぴ) 今まで自己を捨てる覚悟

雪ダルマ、ダルマさんがころんだ、ダルマ落としなど日本人にとって馴染みの深いダルマさん。

ダルマさんは達磨大師という実在した高僧に由来しています。

ダルマさんの弟子に腕を切って弟子入りした慧可がいます。

 

【慧可断臂(えかだんぴ)】

”慧可”は「禅宗の高僧の名前」、”断臂”は「腕を切り落とす」「肘を切り落とす」

 

慧可は腕を切ることによって、今までのとらわれた自己を絶って、弟子になる決意をしました。

 

ソクラテスは、常日頃、物事を知ったかぶりしたらもうそれ以上賢くなれないといっていた。

これを無知の知という。

無知の知に陥ってしまうと、人はもうそれ以上自分に問いを投げかけることはなくなってしまう。

それではもはや成長することも望めません。

 

自尊心が低いと傲慢になり、相手の考えを否定してしまい成長することが難しくなりますが、自分には知らないことがあると認めること。

今までの思い込みを手放すこと。

そうすることで成長できます。

「一期一会の大切さ」

ディズニーランドのスタッフは、「これが最後」という一期一会の思いで働いているという話を聞いたことがあります。

 

アトラクションの説明をするスタッフは、1日中同じ説明を繰り返すわけですから、普通なら、面倒くさくなることもあると思うのです。

でも、「このお客さまがディズニーランドで遊ぶのはこれが人生最後かもしれない」と思ったら、どうでしょうか?

 

1985年の夏、飛行機の墜落事故がありました。御巣鷹山の事故です。

その乗客の中には、ディズニーランドで遊んだあとに、あの飛行機に乗り込んだ方もいたのだとか。

その写真がディズニーランドのスタッフルームに貼られていたそうです。

 

5分後になにがあるかは誰にもわからない。

ほんとうは、次にまた必ず会えるとは、誰にもいえないのです。

 

「一期一会」とは、本当は「いつも会っている人とこれが最後と思って会うこと」 という意味だそうです。

なぜ命の重さに違いを感じるのか?

悩むのは愛着があるから

愛別離苦」が人生です。

 

 たとえば、誰かが「家一軒、壊れましたよ」と騒いでいたとします。

それだけなら無関心でいられます。驚きもしません。

しかし、「壊れたのはあなたの家ですよ」と言われたら、その瞬間に気が遠くなって、立ち直ることができなくなります。

 

別の例でいえば、リビアでたくさんの人が死んでもぜんぜん気にしませんが、家族の誰かが一人死んだら、耐えられない苦しみに陥りますね。

問題は愛着にあるのです。

 

人間の慈悲、慈愛には限界があるのです。人間の慈悲を「小慈悲」といいます。

それに対して、阿弥陀如来の慈悲は「大慈悲」です。

 すべての人々を幸せにしなくてはいられない。すべての人々が幸せになったとき、「ああ、うれしい。これで私も幸せになれた」と言われるのが仏なのです。

 

愛着のあるものへの小さな範囲の小慈悲だとしても相手を大切にしましょう。

 

◉喜びを得たければ、人と分かち合わなければならない。幸せは双子で生まれたのだから。──バイロン

◉独り占めしていては、幸せとは呼べません。それじゃあ味気なくて。──シャーロット・ブロンテ

『他人の過ちやよくないことを、見る必要はありません。 他人のしたこと、しなかったことも、見る必要はありません。 自分のことこそ観察すればいかがですか。 何をしたのか、しなかったかと。』

『他人の過ちやよくないことを、見る必要はありません。

他人のしたこと、しなかったことも、見る必要はありません。

自分のことこそ観察すればいかがですか。

何をしたのか、しなかったかと。』

釈迦(ダンマパダ 50)

 

他人の過ちや他人のしたことを見て気にするのではなく、自分の過ちや自分のしたことこそ、きちんと見て気にかけるようにしてください、という意味です。

 

自分のことには目をつぶって他人のあら探しばかりをするのは、人間の普通の性質で、とてもよくあることです。

 

私たちは他人には厳しく、自分には甘いのです。 自分もよく間違うし、人生は失敗だらけなのに、他人には完璧さを求め、過ちは許さずに腹を立てるのです。そして説教をしたくなったりします。

それはもう人間関係に爆弾を仕掛けるのと同じことなのです。

 

まず大切なことは、自分はわがままであると正直に認めることです。

人は自分が自分勝手な人間だということを認めたくありません。けれども私たちは仏教的な正しい立場に立ちましょう。

それは別に難しいことではなくて、所詮生命というのは自己愛で、わがままで、自分の幸福、自分の利益を考えて生きているということを理解することなのです。

 

私はわがままだと理解できたならば、次に知るべきことがあります。それは、私だけではなく、私の子どもも、友人も、ダンナさんも、奥さんも、会社の同僚も、誰でも人間は自分勝手でわがままなのだということです。

 

人は自分のことしか考えないものだと理解していれば、それによって結構人づきあいがうまくいくのです。

なぜならば、それを理解していれば、むやみに腹を立てないようになるからです。 私たちは喧嘩をすると、怒って「何と自分勝手な人間だ」と相手を罵ります。

言われた人はもっと怒ります。そこで喧嘩がどんどんエスカレートしていくのです。

 

自分以外の人が自分勝手であることに気づいたときに「それはわがままではないか」と言う必要はありません。

自分の子どもに「わがままはやめなさい」と言いたくなりますね。

そのときは瞬間に、私は自分のわがままな心で、自分の思う通りに子どもが行動してほしいと思っている、と理解すればいいのです。

 

「あなたはひどくわがままな人だ」と相手を非難して口に出すのではなく、それを正しい人間理解として心の中で納得しておいてください。

人間がわがままだというのは当たり前のことなのです。

 

だから喧嘩などをするのです。相手だけではなく、結局自分も同じように、ひどくわがままなのです。

自分の立場からみると相手がわがままで、相手の立場からみれば自分がわがままだ、というだけのことなのです。

それがきちんと理解できていれば争いにはなりません。

 

私たちは皆、自分もいい加減わがままなのに、他人のわがままを見ると「こういう自分勝手な人とはつきあえない」と腹を立てます。「あの会社はあまりにも自社利益ばかり考えるので、もう取引はできない」などと、他の会社がわがままであることも許せません。

 

それはどういう論理かと言いますと、「私は自分勝手ですが、他人のわがままはぜったいに許せません」ということです。

 

つまり「私はわがままですが、世の中の他の人間はわがままになってはいけません。私のために」と言っていることなのです。

 

私たちは、自分の生き方の哲学をはっきりと理解せずに生きています。

事実を見ないようにして、何となく生きているのです。本当のことを聞きたくないのです。

誰かに本当のことを言われたら腹を立てますが、自分の本当の姿に気づくことだけが、自分を直す唯一の道なのです。

自分の本当の姿に気づいた人は、悪いところに気をつけて立派な人間になっていきます。

 

ですから本当の姿を見てください。本当の姿とは、自分はすごくイヤな人間だということなのです。

なぜならば、ひどくわがままのくせに他人のわがままを見ると腹を立てて罵る人は、客観的に見るとどういう人でしょうか?

 

やはり他の人から見ると、そういう人はイヤな人なのです。