『他人の過ちやよくないことを、見る必要はありません。 他人のしたこと、しなかったことも、見る必要はありません。 自分のことこそ観察すればいかがですか。 何をしたのか、しなかったかと。』
『他人の過ちやよくないことを、見る必要はありません。
他人のしたこと、しなかったことも、見る必要はありません。
自分のことこそ観察すればいかがですか。
何をしたのか、しなかったかと。』
釈迦(ダンマパダ 50)
他人の過ちや他人のしたことを見て気にするのではなく、自分の過ちや自分のしたことこそ、きちんと見て気にかけるようにしてください、という意味です。
自分のことには目をつぶって他人のあら探しばかりをするのは、人間の普通の性質で、とてもよくあることです。
私たちは他人には厳しく、自分には甘いのです。 自分もよく間違うし、人生は失敗だらけなのに、他人には完璧さを求め、過ちは許さずに腹を立てるのです。そして説教をしたくなったりします。
それはもう人間関係に爆弾を仕掛けるのと同じことなのです。
まず大切なことは、自分はわがままであると正直に認めることです。
人は自分が自分勝手な人間だということを認めたくありません。けれども私たちは仏教的な正しい立場に立ちましょう。
それは別に難しいことではなくて、所詮生命というのは自己愛で、わがままで、自分の幸福、自分の利益を考えて生きているということを理解することなのです。
私はわがままだと理解できたならば、次に知るべきことがあります。それは、私だけではなく、私の子どもも、友人も、ダンナさんも、奥さんも、会社の同僚も、誰でも人間は自分勝手でわがままなのだということです。
人は自分のことしか考えないものだと理解していれば、それによって結構人づきあいがうまくいくのです。
なぜならば、それを理解していれば、むやみに腹を立てないようになるからです。 私たちは喧嘩をすると、怒って「何と自分勝手な人間だ」と相手を罵ります。
言われた人はもっと怒ります。そこで喧嘩がどんどんエスカレートしていくのです。
自分以外の人が自分勝手であることに気づいたときに「それはわがままではないか」と言う必要はありません。
自分の子どもに「わがままはやめなさい」と言いたくなりますね。
そのときは瞬間に、私は自分のわがままな心で、自分の思う通りに子どもが行動してほしいと思っている、と理解すればいいのです。
「あなたはひどくわがままな人だ」と相手を非難して口に出すのではなく、それを正しい人間理解として心の中で納得しておいてください。
人間がわがままだというのは当たり前のことなのです。
だから喧嘩などをするのです。相手だけではなく、結局自分も同じように、ひどくわがままなのです。
自分の立場からみると相手がわがままで、相手の立場からみれば自分がわがままだ、というだけのことなのです。
それがきちんと理解できていれば争いにはなりません。
私たちは皆、自分もいい加減わがままなのに、他人のわがままを見ると「こういう自分勝手な人とはつきあえない」と腹を立てます。「あの会社はあまりにも自社利益ばかり考えるので、もう取引はできない」などと、他の会社がわがままであることも許せません。
それはどういう論理かと言いますと、「私は自分勝手ですが、他人のわがままはぜったいに許せません」ということです。
つまり「私はわがままですが、世の中の他の人間はわがままになってはいけません。私のために」と言っていることなのです。
私たちは、自分の生き方の哲学をはっきりと理解せずに生きています。
事実を見ないようにして、何となく生きているのです。本当のことを聞きたくないのです。
誰かに本当のことを言われたら腹を立てますが、自分の本当の姿に気づくことだけが、自分を直す唯一の道なのです。
自分の本当の姿に気づいた人は、悪いところに気をつけて立派な人間になっていきます。
ですから本当の姿を見てください。本当の姿とは、自分はすごくイヤな人間だということなのです。
なぜならば、ひどくわがままのくせに他人のわがままを見ると腹を立てて罵る人は、客観的に見るとどういう人でしょうか?
やはり他の人から見ると、そういう人はイヤな人なのです。